ここのところ、「保守」が流行りらしい。
冷戦時代の我が国では暫く、保守と言えば、直ちに「反動」とセットにされていた。
それは、悪の代名詞であり、愚劣の代名詞であり、時代錯誤の代名詞であり…
とにかく軽蔑し、唾棄し、排除すべきものというのが、ほとんど通念になっていた。
だが、ソ連崩壊と共にマルクス主義が凋落。
すると、それまで時代の表舞台でのさばっていた戦後左翼の欺瞞と偽善が、一気に嫌悪されることになる。
その「反動」で、“保守”の人気が急騰したというのが、
大雑把な経緯らしい。
そうした中で、エドモンド・バークやトクヴィルなどの思想を再評価する動きが出て来たのは、当然だ。
だが、ここに不審なことがある。
それは、いつまで経っても、「保守」の思想を語る時に、ほとんど欧米の思想家の名前しか語られないという事実だ。
「保守的であるとは、見知らぬものよりも慣れ親しんだものを好むこと…
自己の身に相応しく生きていくことであり、
自分自身にも自分の環境にも存在しない一層高度な完璧さを、
追求しようとしないことである」(マイケル・オークショット)という。
ならば、「見知らぬ」欧米の知識人の言説ばかり追いかけて、
「自分自身にも自分の環境にも存在しない一層高度な完璧さ」を求めるのは、
到底「保守的」な態度とは言えまい。
何故、北畠親房や本居宣長や吉田松陰や福沢諭吉…は語られないのか。
それらの人物は語るに値しないのだろうか。
それとも、端から眼中にないのか。
そこに私は、いかがわしさを感じざるを得ない。
近年、流行の「保守主義」も、これまで知識人やその亜流達が、その時々の流行り廃りに合わせて、
身につけたり、脱ぎ捨てたりしてきた知的アクセサリーと何処が違うのか、と。
例えば、バークの「時効」の考え方を使って、伝統尊重を唱えるのは、結構だ。
しかし、肝心の伝統そのものの中身を何も知らなかったとしたら。
これほど滑稽なことはあるまい。
或いは、さらに伝統そのものの中身に一切、関心がなかったとしたら。
これほど欺瞞的なことはあるまい。
伝統の何たるかを知らず、関心すら持たない人間が、伝統「死守」を叫ぶという不思議な光景すら、今や普通に見られる。
その場合、それは保守のたしなみとは無縁な、
エセ伝統「原理」主義に陥っていると言うべきだろう。
別に呼び名は「保守」でも何でもよい。
外来思想を無下に排斥するつもりもない。
だが、それらを咀嚼した上で、
日本人の歴史と暮らしの中から立ち上がって来る思想だけが、
本物ではないのか。
BLOGブログ
前の記事へ今月の『WiLL』は面白い
女性宮家「先送り」は許されない次の記事へ